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明治政府はなぜ漢方医学を排斥したのか?
〜歴史の暗号を読む
油井富雄(ジャーナリスト)
明治政府は、西洋医学のみを修得したものに医師資格を与える制度を打ち立てた。薬学、衛生学も同様で、事実上の漢方医学排斥を制度として確立、以後明治、昭和と漢方復興運動という言葉が存在するほど東西医学が激突してきた。いま、漢方医学も医療として認知され、漢方薬の売り上げも伸びている。さらに統合医療という言葉も出現した。将来の医療はどうあるべきか、歴史を紐解き、そのヒントを探してみたい。
西洋医学、東洋医学の区別など本来はない
かつて、どこの国にも東洋医学も西洋医学の区別などなかった。目の前の人の苦痛を和らげ、命の営みに支障をきたした体を正常に戻すためのあらゆる方法を用いて治療にあたる人がいれば、それは今でいう“医師”たりえた。日本でもそうだったはずである。ところが、明治以後、日本の医療分野に朋らかに明確な区別が生まれた。医師の資格制度の整備する中、西洋医学のみを修得した者が医師であるとの政策を打ち出し、漢方医学、東洋医学が埒外に置かれる状況になった。以後、漢方復興運動という言葉も存在するほど日本の漢方医学は苦難の道を歩んできた。現在に目を転じてみよう。全国の医学、薬学を学ぶ医学、薬学生は、何らかの形で漢方の講座を受講するようになった。文科省のコアカリキュラムに『和漢薬を概説できる』という項目が入ったからだ。
資格試験、漢方の哲学をどう教育、グローバル化の課題など問題山積
漢方医が全国で100人に満たず、漢方医学が絶滅の危機に瀕した昭和初期から見ると隔世の感がする。しかし〈医師国家試験に漢方の出題を〉〈漢方医学の哲学をどうやって西洋医学の分野と融合させるか〉〈漢方の臨床評価をどう立証するか〉〈漢方医学を国際化するには〉などまだまだ大きな課題を抱えている。さらには、西洋医学、漢方医学に限らず、世界の伝統療法や相補・代替療法も駆使した統合医療が叫ばれる時代になった。世界を見ても、明治、昭和の漢方復興運動という形で西洋医学と東洋医学が正面からぶつかった国はない。その東西医学の激突した江戸時代末期から明治初期に何が起こったのだろう。『ダ・ヴィンチ・コード』ではないが、歴史にはある断面を覗くと大きなメッセージがあり、将来に向けての暗号が込められている。いま、医療はどうあるべきか、将来はどうあるべきか、日本の医療がどんな問題を抱えてきたか、歴史を検証することで見えてくるものがある。明治政府がなぜ漢方医学を排斥したのか? を紐解いてみよう。【記事全文は本紙で】
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