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【書評】『小説 蛭子』

壮大なファンタジーを味わう

         寺澤捷年(千葉大学大学院医学研究院教授)

昨年の「ニューズ・ウイーク」誌がアメリカの人々が注目している日本人100人を掲載した。本書の著者・佐賀純一先生は顔写真入りで見事100人に入選した。その理由が素晴らしい。先生の著作「浅草博徒一代」の英語版から、あのボブ・ディランが無断で言葉を引用し作詞したことを、ウオールストリート・ジャーナルが報道したのである。当然、佐賀先生は著作権侵害で訴えるだろうと、アメリカの皆が考え、ジャーナリストが佐賀先生のお宅へ殺到した。ところが、佐賀先生は動ずることなく「私の著作を読んでくれる人は限られている。しかしボブ・デイランが歌ってくれれば、多くの人が私の言葉を味わってくれる。こんな嬉しいことはない。訴えるつもりは全くない」と言ってのけたのである。

その佐賀先生から最新作「蛭子」をお贈り頂いた。その面白い事と言ったら言葉にならない。私は魔術にでも掛かったように一晩で読破してしまった。早寝早起きの私が煌々と明かりをつけて深夜にこの本に読みふっけって居るのを見て、家内が何度か心配そうに私の部屋を覗きに来たのだが、ともかく途中で止めるわけには行かなかったのである。

「蛭子」とは何者か?「古事記」の「天地(あめつち)の初め」淤能碁呂島(おのごろしま)の項の末尾に「蛭子」はイザナギとイザナミの最初の子として誕生したとある。ところが、「この子は葦船に入れて流し去(う)てき。次に淡島を生みき。こも子の例(かず)には入らず。」と記されている。何と不思議な記述だろう。

島々や多くの神々を生んだイザナギとイザナミの最初の子供が葦の船に乗せられて捨てられ、神々の名簿から除外されているのだ。この不遇の「蛭子」に着目し、壮大なファンタジーを描き出したのがこの作品である。

この「蛭子」は水蛭のような形をし、あるいは形あって泡のようなものともなり、現世から黄泉の国へ、そして再び黄泉の国から現世に現れた。左の目にはアマテラス、右の目には月読尊(つきよみのみこと)を宿したこともあった。後に、破壊の神スサノオに宿り、アマテラスとの戦に破れ、次いで温厚篤実な大穴牟遅神(おおあなむじがみ)に宿った。そしてスセリヒメの愛に出会い、アマテラスの軍勢を前に「国譲り」を決意し、終焉を迎える。

中国思想では陰陽が分かたれる以前の形而上の概念として「太極」を位置づけている。「蛭子」はイザナギ、イザナミの陰陽の合体が生み出した。陰陽より上位のものを陰陽が生み出したのだ。こう考えると、この作品の不可思議な一面が理解できそうである。

そして、この作品が最も人を感動させるのは、人間存在が抱える「業」や、「愛と憎しみ」を乗り越える「本当の知」とは何かを「蛭子」によって語らせていることであろう。人間の愚かしさを神々の世界に仮託して「もう争いはいやだ!様々なパラダイムの相違を和諧させて行くことこそが私たちの生きて行く唯一の道だ」と説いている。この思想こそが、実は「古事記」が編纂された本当の意図ではなかったのか。私はこの作品を通読して、そう考えるに至った。

構造主義人類学のレヴィストロースは世界各地の神話を研究し「私たちの祖先は十分に考えていた」と記しているが、「蛭子」は、まさしく、壮大なドラマの中に、この言葉を実感させてくれる名著である。

    引用文献:次田真幸著、「古事記」(全訳注)、講談社学術文庫

 東洋医学舎刊
 2005年5月発行
 四六判・上製・246頁
 定価 1260円

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