【著者インタビュー】佐賀純一氏に聞く
「存在するものは変容する」
和漢薬にも通じる“関係性”の存在論
今回出版になった佐賀先生の2つの作品は、これまでのものとはジャンルが異なりますね。30年もの間『古事記』を独自に研究してこられたそうですが、この2作品が誕生する経緯と内容についてお話をうかがいたいと思います。
佐賀 まず『変容する神々』の方からお話します。これまで古事記は「歴史書」と捉えられてきましたが、梅原猛氏は「歴史書ではなくむしろ日本人の根本的な思想を表現している思想書」であり、その思想は「ミソギ・ハライ思想」=国家にとって都合の悪いものは払ってしまおうという思想であると論じました。梅原氏の発想は記紀研究の発想に転回を与えた大胆な古事記論でした。
古事記は確かに思想書です。しかし、私は「ミソギ・ハライ思想」が主流をなすものではないと考えました。
どのような思想だとお考えになられたのですか。
佐賀 古事記の思想で見落としてはならないのは「存在するものは変容する」という思想です。「関係」することでお互いが変わるという思想です。この「変容」を認識していないために古事記を解釈することがこれまで困難だったのです。古事記は上巻の冒頭で独り神を次々に否定します。「関係」を持たない単独者はこの世に存在し得ないという思想です。「関係」によってすばらしくも悪くも「変容」するという存在論が古事記にあるのです。
一番の典型はイザナミが鬼に変容します。あるいは単なる長い鉄の剣が、火というエネルギーに触れることによって焼きが入り十拳剣(とつかのつるぎ)というすばらしい剣に変容する。それによって大きな戦争が起こるのです。この「触れ(関係)による変容」は古事記独特の思想です。キリスト教の神は変容しません。ゼウスもインドの神々も変容しません。エジプトの神もギリシャの神もね。ところが日本の神はどんどん変容する。
つまり「関係」とは「変容」なのです。人間の世界でもすばらしい人に出会えば「なるほど」と思うし、芸術に会えば眼が開かれる。反対に恐ろしい人に会うことでまるで悪魔のようになってしまう人もいる。日常的に言えば何かに出会う場合には用心しなければならないということなのです。
イザナキとイザナミは国造りを成し得るすばらしい「関係」だったのですね。
佐賀 そうです。ところが第1子は蛭のように形態もない蛭子(ひるこ)が生まれました。神であっても人間であってもたとえすばらしい男女がすばらしい関係を結んだとしても、未来を予測することはできない。この世は不条理なのです。
和漢薬も生薬同士を関係させ、服用により生体、症候と関係させることを目的として処方しますね。とんでもない副作用が出ないように用心もします。また日本漢方は予想だにしない奏功や失敗例もしばしばあることを受け止めて研究しますね。「不条理」はその考え方にも通じているように思います。
火というエネルギー=文明を生み出した罪を罰する
佐賀 そして火の神の誕生で文明が発生しました。古事記では文明の発生と共に戦いの象徴として剣が生まれます。火という諸刃の剣を生むことによって、原子的な共同体、非常に素朴な平和な共存体を壊してしまった。その神は罰しなくてはならないという思想があります。この世で最初に罰を与えられたのが日本を作った神・イザナミなのです。火の神を生んだことで黄泉の国の鬼となった。
いま私たちは地球温暖化とか京都議定書とか言っているけれども、その先行く思想です。人間が存在してエネルギーを求め豊さを求めると同時に、人間は罪を生み出したということです。
それは避けられないということですね。
佐賀 避けられない。この世に存在する限り自分を壊すものを生むことが不可避だったのです。
それからもう一つは、愛の思想です。愛によって大きなものが生まれる。不条理や存在の不安を越えて、様々な歌も生み出す。古今集の序文を見ると、日本の和歌のはじめはイザナキとイザナミの誉め合いからはじまると書いてある。古事記はお互いに誉め合うことを通じて文学の根本を生み出していました。
つまり古事記上巻は「理念の書」です。中・下巻の天皇家にまつわる抗争の史実にあるような残虐なものを見てきた人々が、最終的に日本という国をどうしたら救えるのか、戦いのない、平和でお互いに和気藹々として住めるような、誰もがこの国に生まれてよかったというような国にするにはどうしたらいいのか、そのための「理念の書」だと私は思うのです。そこには独裁制から合議制へという方向性もあります。未完成の社会から完成した理想国家への変遷のドラマを描き、その理想にいたる形態を述べたのです。
こうしてお聞きすると古事記には私たちの日常に通じる様々な要素が盛り込まれていますね。
愛と死と再生の物語を
叙事詩のように描いた『蛭子』
オペラにも芝居にもなるように創作
『蛭子』は古事記をモチーフにした小説ですね。
佐賀 『蛭子』は『変容する神々』を書き上げる1年前にすでに完成していました。そのストーリーには「混沌とした生命→愛に目覚めた生命」という方向性があります。これは私が『変容する神々』の中で論じた変遷のドラマの方向性です。『蛭子』を創作しているとき、私の中で古事記論はまだはっきりとは意識されていませんでした。しかしどこかで直感していた感性が描かせたのでしょうね。
『蛭子』全編は古事記神話を基盤としながら「愛と死と再生」を叙事詩のように描き、オペラにも芝居にもなるように創作しました。それは目次を見ていただくとわかります。
2冊の表紙には佐賀先生が描かれた絵が装画されていますね。
佐賀 古事記神話を主題にした本格的な絵というのは、あまり描かれていません。ギリシャ神話や聖書の物語はたくさん描かれているのに比して寥々たるものです。私のような素人ではなく、才能ある芸術家が古事記の世界と正面から向き合って、すばらしい作品が生み出されることを願ってやみません。
古事記は現代に向けて重要なメッセージを発している読み物なのですね。『変容する神々』の古事記論にある「和」を大切にする日本や日本人の心はすばらしく、「神格の変容」の論述もすっきりとつじつまが合っていて明快です。われわれは「生きている」のと同時に「生かされている」のだなあということを感じます。
また小説『蛭子』はスサノオや大国主神、スセリヒメなど八百万の神々が登場し展開する場面に、凄まじい音と光の情景が描写されていますね。アニメーション化が実現したらいいかも知れませんね。ぜひたくさんの方々に読んでいただきたいと思います。ありがとうございました。
(聞き手・「漢方医薬新聞」編集部)
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