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生きるための渾身の力を与えた『藪医竹軒行状記』

狂言師  山本 東次郎

狂言にはさまざまな身分や職業の役がありますが、その中にはたった一曲ですが医者も登場します。人気のある曲ですのでご覧になったことのある方も多いでしょう、『神鳴(かみなり)』の医者です。この医者は自ら「薮医師」と卑下していますが、自分の腕に自信がありません。名医が大勢の都ではとても商売ができない、医者の不足している東国なら何とかなるかもしれないと関東に下ります。ところがその旅の途中、雲間を踏み外して下界に落ちてきた神鳴に腰の治療を強要されてしまいます。医者は恐る恐る針治療を始めますが、思いのほか治療はうまくいき、神鳴は元気な体を取り戻しました。まさに命懸けの努力が実を結び、医者は命を預かる仕事への使命に目覚めていきます。
 さてその後、この医者がどのような歩みをたどったか、まるでその後日談のような物語が誕生しました。ご自身がお医者さまでもあられる佐賀純一先生の『藪医竹軒行状記』です。
 私たち古典芸能の世界でも昨今は新作流行りで、私のところにも時折、新作狂言の台本を書いたので見てほしい、上演してもらえないかという依頼が寄せられます。狂言は能に比べてずっと平明な言葉を用いますので、狂言をご覧になると自分にも書けそうな気になる方もおいでになるでしょう。狂言を楽しんでくださるのはたいへん有り難いのですが、そのたびに困ったなと思います。一見無造作にも思える狂言の科白(せりふ)ですが、実はそれは徹底的に削り上げ選び抜かれた言葉であり、そしてまた削り込みの過程で敢えて省いた言葉の代わりに仕草や型が補い、その両者が揃って初めて狂言として成り立っているのです。
 佐賀先生は実に面白い試みをなされました。『藪医竹軒行状記』は狂言の様式や科白回しを用いた物語です。豊かに溢れかえる言葉によって存分に語りつくしていますので、残念ながら狂言の舞台で演じることはできません。しかし、狂言をご覧になった方なら間違いなく、主人公の藪医竹軒先生や診療所を訪れるユニークな患者さんたちが生き生きと舞台上で活躍するさまを思い浮かべることができます。これは実に楽しいことではありませんか。
 この短編を『漢方医薬新聞』に連載されていた頃、佐賀先生はたいへんな病に見舞われました。その最中、手術室に向かう直前、あるいは術後数日間の食べるものを何も口にできないときでさえ、この作品を書き綴られていたわけで、その情熱に頭が下がると同時に、狂言を踏襲したこの作品そのものが先生に生きるための渾身の力を与えたのでは、とも思われるのです。
 狂言には死者や亡霊や閻魔王も登場しますが、それはあくまでも寓話的な表現であり、決して「死」そのものは描きません。人間にとっては避けることのできない「死」ですが、「死」について思い煩うよりも、今生きていること、この命を存分に充実させよと狂言は言います。
 『藪医竹軒行状記』はどうかと言いますと、第十五話に竹軒のこんな科白があります。
「医者というものは病と向き合って生きて居おる。運がよい患者は速すみやかに治るが、時にはどのように手を尽くしても、この世の運が尽きて死ぬ患者も居る。つまり、医者はこの世と死者の国との境目に立っているというわけだ。」
 人の命を預かる厳しい仕事、常に死の闇を意識し闘いながら、なおいつも明るい方に向かって歩み続ける勇気溢れるこの物語は、必ず読者の皆様の心の良薬になることと思います。

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