第91回 旅順(四)
二年前の最初の訪問時には全くなかったのに、復元されていた「水師営会見所跡」の建物に、商機をみるのに機敏な中国人の商魂に驚きながら、そこの前の土産物店内の食堂で昼食を済ませた。
午後は前回行ってなかった、当時の露軍の砲二門がそのまま残されている二竜山砲台、それに続く望台保塁と参観。更に二百三高地を再訪した。前回も書いたが「爾霊山」の砲弾型の塔は勿論以前のままだったが、この塔の周辺は前は何も無かったのに、屋台の土産物店が二三軒客を待っていた。最近は訪れる観光客も増えてきて結構商売になるのであろうか。
次は市内の旅順博物館と旧旅順監獄へ案内された。博物館はロシアの建てた病院か何かを当時のまま転用して博物館として使用されている。旅順監獄は日本統治時代のものを、そのまま遺跡として見学させている。ここの獄庭には日露戦争時代の記念的遺物も様々展示してあり、印象に残ったものを記すと、戦争時旅順郊外の柳樹房にあった第三軍司令部を記念して戦後日本が建てた「第三軍司令部駐営地」と彫られた二米程の花崗岩の紡錘形の石柱。
もう一つ驚かされたのは、前記した南山の戦場を訪れて乃木大将が詠んだ「山川草木碑」が横たわっていたことであった。長さ三米弱。この碑は文化大革命の暴動の際に引き倒されたと言われ、台座に近い部分はギザギザに破断していて、七言絶句の下の部分「新戦場」「立斜陽」の部分は無い。それでも、前日南山の激戦地を踏んできた私は、詩碑の死屍を見た思いで沈痛な気持ちにさせられた。
又、この監獄では、ハルピン駅頭で日本の伊藤博文をピストルで射殺して捕われ、この監獄で絞首刑に処された、現在は韓国で義士として遇されている安重根、その処刑場をそのまま保存されていて、往事を思い複雑な気持ちにさせられた。
最後に案内してくれたのは、市街地を離れ、旅順口の東岸にある黄金山砲台であった。この地は黄海に臨んだ波打際で、六、七十米の断崖の上、右下の眼下は軍艦の通行可能幅九十米という、ごく狭い旅順口を厄していてその上である。往事の砲五,六門がそのまま残されていて海を睨んでいる。当時旅順港を封鎖した日本の東郷艦隊と相対峙した砲台である。
海は早春の陽光を受けて沖は霞んでいる。東郷大将はこの港口を閉塞しようとして、数次にわたってこの眼下へ閉塞船を沈下しようと企てたのであったが、この黄金山砲台からの探照灯の照射と砲撃で、遂にその目的は達成出来ずに終った。広瀬中佐や杉野兵曹長の戦死もこの眼下の海である。砲台からみればまさに至近距離の砲撃で、日本側がその目的を達せられなかったことは、その現地に立ってみれば、よく理解できる。
帰途、旅順駅というより旅順停留所と言ったほうがふさわしい小さなプラットホームの駅を参観して、二回目の旅順の見学も終った。
それにしても、第2次大戦後六十余年もたったのに、中国側はよく旅順の戦跡を保存してくれている。又、旅順はこれらの戦跡を売り物に観光都市として観光客を呼びたい意向のようでもある。しかし、満州という他国を舞台にした日露の激突もすでに百余年の昔である。太平洋戦争の敗戦によって去勢されてしまったかのように、吾々の祖父の時代の人々が祖国の自立の為、尊い血を流し、戦場の露と消えていってくれた日露戦争の意義を、現代の平和な時代であっても忘れ去ってはならないと思うものである。
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